映画『タクシードライバー』は、1976年に公開されて以来、時代を超えて多くの人々に影響を与え続けている名作です。
監督はマーティン・スコセッシ、主演はロバート・デ・ニーロ。
この映画は、孤独で精神的に追い詰められた帰還兵トラヴィス・ビックルの内面を描き、アメリカ社会の闇を浮き彫りにしています。
今回はその魅力とテーマを深掘りし、映画が描く人間心理や社会の問題について考察します。
考察①:孤独と承認欲求の暴走
映画の主人公トラヴィスは、ベトナム戦争から帰還したものの、心に深い傷を負い、社会にうまく溶け込むことができません。
彼が抱える最大の問題は孤独であり、他者からの承認を得ることに強く依存している点です。
タクシー運転手として働く彼は、夜のニューヨークを走りながら、自分の存在を誰もが認めてほしいという欲求に駆られています。
彼が感じる社会からの疎外感と孤立感は、彼の行動に大きな影響を与えます。
例えば、彼は自身が愛する女性ベッツィにアプローチを試みますが、結果的には自らの不器用さと誤解で失敗し、ますます自分を孤独な存在だと感じるようになります。
トラヴィスの暴走は、この承認欲求の果てにあるものです。
彼は他人に必要とされることで、自分の価値を証明しようとしますが、それが次第に暴力的な行動へとつながります。
売春婦アイリスを救おうとすることで、一時的に自己評価が高まるものの、その後も彼の欲求は満たされることなく、再び孤独に苦しみます。
考察②:アメリカン・ニューシネマとトラヴィスの反社会的行動
『タクシードライバー』は、アメリカン・ニューシネマという映画運動の一部としても評価されています。
この運動は、社会的に不遇な立場にある人物や、システムに疑問を持つ主人公を描くことで、アメリカ社会の暗部を浮き彫りにしてきました。
しかし、トラヴィスはこの運動の一般的な主人公とは異なります。
アメリカン・ニューシネマの多くの作品は、観客が主人公に共感し、同情する形で進行しますが、トラヴィスはその正反対です。
彼は社会の「クズども」と呼び、ニューヨークの荒廃した街を「洗い流してくれ」と願うなど、反社会的な態度を取ります。
彼の心の中には他者との共感を求める気持ちがほとんど感じられません。
むしろ、自分を特別な存在だと思い込み、周囲の人々を見下しているようにも見えます。
トラヴィスは、孤独や怒りの中で暴力的な行動を取ることで、自己の価値を証明しようとします。
彼の行動は、社会に適応できなかった結果の暴走であり、アメリカン・ニューシネマにおける「反体制的」なテーマとは一線を画しています。
彼の心の闇が暴力として表面化し、観客はその行動に驚かされることになります。
考察③:ラストシーンと未来への暗示
『タクシードライバー』のラストシーンは、多くの観客に強い印象を与えました。
トラヴィスがアイリスを助けた後、タクシーに再び乗るシーンです。
この時、彼は一見、再び「正常」に戻ったように見えます。
しかし、監督のマーティン・スコセッシは、このラストに関して、トラヴィスが一時的に正常を取り戻したように見えるが、時限爆弾のようにいつ暴走するか分からない印象を残すと語っています。
このラストシーンは、トラヴィスの心の中で何も解決していないことを暗示しています。
彼は一時的に満足感を得たものの、その欲求が再び暴力として表れる可能性を残しています。
彼が暴走する理由は、自己評価が過大であり、他者との繋がりを持たず、承認欲求に満たされないことからくるものです。
彼がまた暴力に走る可能性は十分にあり、その繰り返しが彼の運命を決定づけることになるでしょう。
まとめ
『タクシードライバー』は、孤独と承認欲求、そして社会からの疎外感をテーマにした深い映画です。
トラヴィス・ビックルという人物を通じて、自己評価が過大でナルシシズムに陥った人物がどのように暴走していくかを描いています。
また、映画はアメリカン・ニューシネマの枠組みに属しながらも、他の作品とは異なる反社会的な主人公像を描き、観客に強烈な印象を与えます。
ラストシーンにおけるトラヴィスの行動は、彼が一時的に正常を取り戻したかのように見えますが、根本的な問題は解決されていないことを示唆しています。
『タクシードライバー』は、社会の変化や個人の内面に潜む闇を深く掘り下げた傑作であり、今も多くの人々に強い影響を与え続けています。